高齢化で、本当に癒さなければならないのはだれか?

突如として、90代の患者さんが食事しなくなった。

食べられないわけではない。食べる気がしないだけだ。

しかし、それはもしかすると自然なことかもしれない。

 

わきあがるような食欲があるのは若いうちだけなのだ。その間は、食べすぎることもあるだろう。

いつしか食べていることが元気な指標になる。

そのうち生きる意欲や、生きる義務感の低下とともに、食欲もなくなる。

 

そういうとき周りが慌てる。

 

あるお年寄りが言っていた言葉を思い出す。

「私はあえて定食屋さんに行く。私自身は定食なんてとんでもないけど、そこで若い人ががつがつ食べている姿を見ると、生きる気力や食欲がわいてくるから・・」

 

食欲とは何だろうか?生きる意欲?渇望?生きるための義務?それさえ通り越したとき、食べるのに飽きた・・。疲れるから食べたくない。そんな気持ちになるらしい。

 

そのとき周りは、食べないなんて信じられない。病気だ。と驚く。

何とか食べさせようとする。しかしそんな対応をされたとき、さらに食欲を失う。お互いに孤独感を強めてしまうのだ。広がるのは本人の気持ちと家族のジレンマ。

 

その時、本当に癒さなければならないのは、お年寄り本人ではない。家族かもしれない。

なぜなら、彼らはその後も生きていかなければならないから・・

患者さんからのお手紙

1488582211605 (002)

 

とても素敵なお言葉をいただきました。

生前にご準備されていたようで、さまざまな方に配られたとのことです。

ご自身の闘病だけでも大変な時期、周囲にこのような気配りを準備されていたといいます。心より感動しました。

(本ブログでのご紹介をご許可いただいたご家族の方に大変感謝いたします。)

医者のくせして・・

普段から多くの患者さんの検診や健康指導をしているにもかかわらず、自分では億劫で、検診を受けていないという医者は少なくない。

私も、自分から率先して受けることはない。しかし、自分の人生の節目を占ったりするときには、自ら人間ドックに入ったりする。

数年に一度は、そういう節目を迎える。前回は3年前、その前はさらに4年前だった。たいていは人生の悩ましい時期だ。今死んではいけない。今からしばらくは頑張らなければならないと思うとき、私は検診を受けているのだ。

最初の時には、何も異常はなかった。

前回では、少し異常が見つかり。

今回は紹介状までもらう羽目になった。

しかしまだ高をくくっている自分がいる。

「この年になれば、少しの異常ぐらいあって当たり前・・・」どうせ受診したって、結論だってわかっているし、受診するだけの時間ももったいない。

そんな言い訳をしている自分がいる。

私はだらしない患者さんを叱らない。なぜなら自分が一番だらしない患者だからだ。