よりよい孤独死

本日、ある自治体で保健所長を務めている医師から、その自治体での死亡者統計の実態を伺う機会をいただいた。

 その自治体で毎年なくなる2000名以上の死亡診断書を見ると、70歳代までは在宅死は比較的多いが、80歳以上、90代、さらに100台となるにつれて、在宅療養でかかりつけ医に最後を看取られている人が少なくなっているという。

 在宅療養ができるにも、ある程度の経済力や自立力が必要なのだというお話である。だから比較的若い人が多いという。

 「なるほど」と頷いた。

 しかし当院では、80代以上の在宅療養が圧倒的に多く、しかもその多くの方は最後までの自宅療養を全うされる方々だ。

どうやら当院がみる患者さんが必ずしも一般的ではないらしい。

多くの80代以上の超高齢者は在宅診療には縁がない。そんなゆとりなどないというのだ。

 

また一方、在宅で最も看取っているのは、監察医務院の先生方であるという。

その割合は5人に一人、つまり20%にも及ぶという。

ほとんどは事故死もしくは孤独死である。がんではなく、心疾患という病名になるという。

 

この話から浮き彫りになる事実がある。

 

我々はつい、温かい家族に囲まれ、住み慣れた自宅で、幸せに人生を全うするというのが理想であり、そして万人が普通にできる社会を目指すべきというテーゼを持って、日々努力している。

 

しかしこのようなテーゼは果たして正しいのだろうか?

 

確かにある一定数は、そのような理想通りの人生を全うできるかもしれないが、それ以外のケースが決して惨めなものでもなければ、否定されるべきものでもないはずだ。

 

むしろその人なりの人生の全うの仕方を、きちんと認め、それぞれをより良いものにするための努力こそが必要なのではないだろうか?

 

よりよい孤独死

よりよい病院死

よりよい在宅死・・・

 

それぞれがよくなる社会こそが、よい高齢化社会かもしれない。

 

無関心でいることはできる。しかし無関係でいることはできない。

日本はすでに人口減の社会の突入している。

今急激に進んでいる高齢化も、高齢者の実数増加自体が大きな要因だが、それに追い打ちをかけているのが人口減である。今後ますます人口が減っていくと予想されている。そうなったら日本はどうなるのだろう。いつか消滅してしまうのではないだろうか?そんな危惧を私は感じていた。

2年前に新宿ヒロクリニックは、西新宿から大久保に移転した。山手線の駅では新宿と新大久保と隣同志、直線距離にしてたった2㎞の移動だが、街の風景は大きく異なる。

西新宿はビル街で住民は非常に少ないが、大久保は中小の民家が密集している住宅街であるのだ。違いはそればかりではない。大久保は歌舞伎町という大繁華街に隣接しているので、昨今は外国人も非常に多くなっているのだ。今当院の外来の2割程度は外国人の患者さんだ。しかしそれでも街を歩いている外国人の割合からすると少ない。大久保のこの地の住民の約40%は外国人であり、住民登録をしていない外国人を含めると、ここで生活している外国人はさらに多い。

今や大久保では日本人は減っているのだ。しかしそれを補うように外国人の住民が増えている。大久保の地域医療や地域経済はもはや外国人なしには成り立たないところまで来ているのだ。

大久保から見ると日本の将来は決して人口が減るという文脈だけでではなく、減った人口を補うように外国人が増えるように思える。今日本中どこに行っても外国人がいない地域はない。この大久保ほどではないとしても、着実に日本で見る外国人は多くなっていっているといえる。

大久保の外国人の生活を見ていると、さらに気が付くことがある。それぞれの国ごとのコミュニティーがあり、それらが分かれて存在しているということだ。たとえば日本人が集う店、ネパール人が集う店、韓国人が集う店、中国人が集う店はあるが、すべての国の人が均等に集まる店はないのだ。日本に居ながらにして、それぞれのコミュニティーは守られていて、決して争うこともないが、接して交わらないでいるだけのように見えるのだ。なぜなのかはわからない。その理由の一つに自然発生的に外国人が増加していて、その周囲の日本人や、それぞれの国ごとの人たちが無関心を装っているからかもしれない。

今後の国際化した日本の将来を考えるとき、独立したコミュニティーばかりの多民族国家になるのか?本当に融合し新しい将来を語り合える国際社会になるのかは、単に時代の移り変わりに任せているだけではすまないように思う。

今後の日本の国際化に積極的に、国民がかかわるかどうかが、大切なように思う。無関心でいることはできたとしても、無関係ではいられないこと。それが日本の将来だからである。