80代の女性は、私鉄沿線の駅前で長いこと飲食店を営んでいたという。
「もともとここは借地です。そこにお店を建てさせてもらった。長年借りてきたけど、一度たりとも地代を遅れたことはなかった。」
すでに長年営業していた店は閉めたが、改築して別のテナントが入っているので、毎朝店前を掃除するのが日課だった。
「家賃をもらっているから、お店の前を掃除ぐらいしてあげないと。」と目をそばめる。
「一週間前から、黄疸が出はじめて、今は眼球はおろか肌全体がみかんのように黄色味を帯びてしまった。こんな姿では、明日からお店の前を掃除しているわけにもいかない。」少し寂しそうに語る彼女の横に、山梨県から訪ねてきた息子さんがたたずんでいた。
初対面の私に息子さんのことを紹介する。
「この息子とも実はもともとは縁遠かった。今こんなに親切にしてもらっていることに感謝している。」
大腸がんが見つかったのは2年前、最初は化学療法も行ったが、あまりにつらかったので途中で中断したという。その後は病院にもいかずに、あえて好きなもの食べて、好きなことをしていたという。
いつかこういう日が来ることを知っていた。それがいつなのかは知らなかったが・・・・
「もう年に不足はないです。ただ苦痛なく最後まで過ごすことだけが望みです。」静かに彼女がつぶやいた。
そんな一言、一言に、昭和の激動を一人で生き抜いてきた女性の力強さと気概が漂っていた。