私たちの価値観

昨日今日と、わたしは朝日新聞に載ったらしい。

小さな記事だが、たまたま有名な方の在宅療養のお手伝いをしたことから、取り上げられた記事だった。

それを読んでくれた患者さんから、いろいろな言葉をかけていただいた。

ありがたいことである。

 

そして今晩、ひさしぶりにあった友人からは、もっと専門性を大事にして、スペシャルな患者さんのスペシャルニーズにこたえれば、いくらでもいけるんじゃない?と言われた。

 

確かに・・・

と思いながら、それができない自分がいる。

 

だってもっと壊れた人がいる。そんなときに、その人たちをほっておけない。

 

救急医療の現場では、必ずその患者さんの社会的的立場ではなく重症度だけでトリアージがされている、

 

それがたとえ、貧乏人だろうが、それがたとえ犯罪者であろうともだ。

 

そこは、大会社の社長もない。政治家でもない。・・・社会的価値に左右されないのだ。

それが我々医療者のばかげた価値観なのだ。

 

どれだけ危ない状況なのか?

その価値観が医療者の価値観なのだ・・・そんな価値観を忘れてはいけないのだ。

 

 

だから医療者は、いつも子供っぽい馬鹿だといわれても・・・

普通医療の普及を目指して

ここぞというときに素晴らしい治療をしてくれる高度医療や先進医療も非常に大切だが、普通の人がよりよく生きて、普通に人生を全うする医療の充実も必要だと思う。

しかしそんな普通の医療は普通にどこにでもあるのだろうか?

生まれてから死ぬまで、普通であり続けることをサポートする医療である。

 

生後間もなくからの、乳幼児健診、ワクチン接種、その後生育に合わせて、生育相談やアレルギーの相談ができたり、さらに様々な感染症対策。小児感染症から、成人感染症、さらには今後非常に増加することが予想される輸入感染症対策、そんな時、職場や学校の健全化も非常に大事になる。さらに年齢を重ねると、成人病検診やがん検診が重要になり、時折の風邪やインフルエンザの対応、生活習慣病管理、がんのかかりつけ医療もたいせつになるだろう。高齢期にはフレイル予防、そして時には往診や、地域社会生活の最後には在宅医療までが一貫して対応されるとありがたい。

 

このように考えると、普通の人が普通に人生を全うするために、実は膨大な保健・衛生・医療が必要であることがわかる。

地域でずっと在宅医療を行ってきた私には高度医療や先進医療は似合わない。

私が目指さなければならないのは、普通の人が健全であり続け、普通に人生を全うできる医療を進めていければと思っている。

 

高齢化で、本当に癒さなければならないのはだれか?

突如として、90代の患者さんが食事しなくなった。

食べられないわけではない。食べる気がしないだけだ。

しかし、それはもしかすると自然なことかもしれない。

 

わきあがるような食欲があるのは若いうちだけなのだ。その間は、食べすぎることもあるだろう。

いつしか食べていることが元気な指標になる。

そのうち生きる意欲や、生きる義務感の低下とともに、食欲もなくなる。

 

そういうとき周りが慌てる。

 

あるお年寄りが言っていた言葉を思い出す。

「私はあえて定食屋さんに行く。私自身は定食なんてとんでもないけど、そこで若い人ががつがつ食べている姿を見ると、生きる気力や食欲がわいてくるから・・」

 

食欲とは何だろうか?生きる意欲?渇望?生きるための義務?それさえ通り越したとき、食べるのに飽きた・・。疲れるから食べたくない。そんな気持ちになるらしい。

 

そのとき周りは、食べないなんて信じられない。病気だ。と驚く。

何とか食べさせようとする。しかしそんな対応をされたとき、さらに食欲を失う。お互いに孤独感を強めてしまうのだ。広がるのは本人の気持ちと家族のジレンマ。

 

その時、本当に癒さなければならないのは、お年寄り本人ではない。家族かもしれない。

なぜなら、彼らはその後も生きていかなければならないから・・

患者さんからのお手紙

1488582211605 (002)

 

とても素敵なお言葉をいただきました。

生前にご準備されていたようで、さまざまな方に配られたとのことです。

ご自身の闘病だけでも大変な時期、周囲にこのような気配りを準備されていたといいます。心より感動しました。

(本ブログでのご紹介をご許可いただいたご家族の方に大変感謝いたします。)