金曜日夜外来、土曜日日中外来

今秋から金曜日午後6時から9時まで、土曜日は午前9時から午後1時、午後3時から午後6時の外来が始まった。

今日は最初の土曜日外来。今年1月に検診で異常の見つかった女性が受診してくれた。

平日日中は、どうしても時間が取れなかったという。だから検診結果の異状は気になっていたが、今日から始まる土曜日外来を待っていたというのだ。しかし仕事の都合で、今後は土曜日の外来も来れなくなる。だから今後は金曜日の夜外来に来るというのだ。

まだまだ患者さんがたくさんいるわけではないが、平日日中は来れないという人も少なくないと思えた。忙しい人こそそうであろう。

土曜日ならこれるという人。夜ならこれるとという人。

そういう人にも、安心して社会生活できる医療が提供できたらと思う次第である。

 

 

永遠のテーマ

かかりつけ医療にも様々なかかわり方がある。

比較的軽症方には軽症なり、重症の方には重症なりに。そして社会的にも症状的にも虚弱な方には、かなり濃密に支えていく必要がある。

一言でかかりつけ医療といっても、多様であり、患者さん毎に異なっているものであるから、定義しづらいし、客観的評価も難しい。

そんなかかりつけ医療を多職種協働のグループで行うというのが当院のスタンスだ。

だからこそかかりつけ医療をきちんと定義もしなければならない。かかりつけの業務とはなにかも明確にしていく必要があるそしてそれらの業務がきちんと分業化され、統合化されて行かなければならないのだ。

これは生易しいことではない。なぜなら、かかりつけ医療とは最終的には、親業と同じだからだ。

かかりつけ医やかかりつけの看護師とは、父親や母親に似ている。

子供にとって母親が大切なのは、決して食事を作ってくれたり、家事をしてくれるからだけではない。本当に自分のことを大事にしてくれて、愛してくれているからだ。

私はその親業を多職種協働で実現したいと願っている。親業も担わなければならない業務がある。様々な家事や家計を維持したりすることだ。同様に、かかりつけ医療も業務がある。それを明確化、分担化、統合化もできるかもしれない。しかしそれらの延長線に親の子供に対する愛情のようなものがなければ、何の意味もないのではないだろうか?

どれだけ人を思う組織でいられるのか?それこそが、永遠のテーマである。

リタイアメント後の生活

仕事が忙しければ、忙しいほど、いつか自分が迎えるリタイアメント後の生活のことを夢見てしまう。豊かな老後・・・自分のためだけに使うお金と時間。長年やりたかったのにできなかった趣味に興じたり、仕事や家族の用事などでなかなか会えなかった友人とのゆったりとした交流を通じて、自分の人生の意味を噛みしめることができればとも思う。

でも果たして、私にそんな時間が来るのだろうか?

大企業に勤めているならともかく、私のような個人事業主といえるような開業医には、なかなかリタイアメントは難しい。ある先輩の医師に言われた言葉を思いだす。「医者が仕事を辞められるのは、すべての患者さんを直したときか?自分より優秀な医者を育てたときだけだ。」もちろん私には前者はできないだろう。だとしたら、後者を目指すとしよう。

地域医療は、個々の医者や医療者の孤独で献身的努力によって支えられているという側面がある。そのような地域医療は、ともすれば独りよがりになるかもしれない。ともすれば発展的現場とは思えないかもしれない。そんな地域医療の現場で優秀な医師を育てることは難しい。私が在宅医療を通じて、独りよがりにならずに、少しでも発展的、系統的は地域医療を目指す理由は、そこにある。いつかこの現場を愛し、引き継いでくれる人が出てきてくれることを期待する。そのために現在のすべての努力があるといっても過言ではない。

しかしここではたと気が付く、今を豊かに生きられないのに、リタイアメント後を豊かに生きられるだろうか?果たして仕事に追われているから、豊かに生きられないのか?確かに24時間365日主治医として対応していると、まったく仕事から離れる時間はない。しかしそれでも夜になれば、電話が鳴らない日も少なくない。休日も仕事の用事がなければ、家族との時間をゆっくりとることもできる。もしかするとリタイアメントを夢見ているというよりは、仕事を言い訳に、いまを無為に過ごしているのかもしれないと。

これからの高齢化社会では、年金制度がこれまでのように手厚いわけではないことは、誰もが想定している。医療費や介護費用も今以上にかさむだろう。そんななかで、豊かな老後やリタイアメントの意味も異なってくるのかもしれない。かなりの高齢になるまで、ある程度の仕事をしながら、自分の人生も楽しむ。その割合がその時々によって異なるだけ、いつまでも現役でい続けるための努力こそが豊かな老後を迎えるための、心がけなのかもしれないのだ。